運動機能障害を有する患者の運動学習について考える

大学院での課題。

T先生の課題だ。

非常に面白いテーマ。

いろいろなことにリンクした内容だった。

身体図式の更新…

姿勢…

どぶけんの勉強会…

先輩の先生が読んでいた本…

今読んでいる本…

様々なことにリンクしたので

何よりもこの内容をアップさせて頂きました。

以下

課題で私が提出した内容そのままです。

短い時間の中で自分の考えを細々と出してきた感じですので

非常に曖昧で抽象的な言葉が多いですが

そのへんはご勘弁下さい。







『運動機能障害を有する患者の運動学習について考える』


私は,運動機能障害を有する患者の運動学習について考える際,

まず頭に浮かんだ観点が「意識と無意識」であった.

この観点は,私が日々の臨床の中で非常に苦慮する点でもある.


私はこれまでの臨床を振り返った時,

また現在担当している患者について考えた時,

患者の動作や生活に変化を生み出せた例と,

そうでない(現在も苦慮しているものも含む)例がある,ということに改めて気づく.

そして変化を生み出せた例とそうでない例の決定的な違いは,

運動(動作)学習できたかできなかった(現在もできない)か,

という点であると私は考えている.

私情ではあるが,そのような違いが生まれてしまった原因は,

正しく私の力不足であると感じ反省するばかりである.


私は臨床の中で常に目の前の患者について,

「いかにして無意識の中で身体の傾向性を変化させ,

 さらにその身体からいかにして以前とは異なる運動や動作を

 無意識に創発させることができるか」と心がけている.

しかしそこで直面する壁がある.

私の変えたいという思いに反して,

患者に無意識の中での変化が生まれない場面に出会う.

その場面で私がやってしまうことが,

運動や動作の言語化(いわゆる運動・動作指導)や言葉による意識づけである.

そうしてしまう原因は様々であり,

メタ認知できていないことも多いと思われるが,

その考えについては今回の課題から逸脱するため記述しないこととする.


私の臨床経験上,

言語化を代表とした意識の世界で運動学習の結果を求めようとすると,

英語をすらすらと読むことのできない私が英文献を読む,

といった健常人でも意識しないあるいはできないことを

求めているような違和感を覚え,

意識させてしまっていることとその違和感に葛藤している思いがする.

そんな思いを何度もしてきているかのように

実例がいくつも頭に浮かんでくる.


一方で,私が患者の無意識を意識することなく

患者のもつ傾向性に変化をもたらし,

その変化の結果と考えられる動作が

導かれたり引き出されたりする瞬間を多く思い起こすこともできる.


運動学習の一般的な定義において「比較的永続的」という文言があるが,

上述した私の経験の中では,

意識が「比較的永続的」に,という例は少なく,

「比較的永続的」とは無意識で生み出せた傾向性や

運動,動作の変化に結びつくことが多いような実感がある.


では,改めて私が臨床の中で心がけている,

「いかにして無意識の中で身体の傾向性を変化させ,

 さらにその身体からいかにして以前とは

 異なる運動や動作を無意識に創発させることができるか」

ということが,「比較的永続的」な運動学習に結びつくのかを整理し,

その内容を私の『運動機能障害を有する患者の運動学習』の考え及び方法論とする.


まず運動機能障害を有する患者が運動学習する際は,

今ある障害のある身体で今ある機能でもって

環境に存在する外部情報に能動的に働きかけない限り,

運動学習に向けての一歩が踏み出せない.

ただし,能動的に働きかければ

どのような質であっても過程であっても良い訳でもない.

大前提として,運動学習できる身体,

知覚循環できる身体でなければ意味がない.

というのも,表在筋が安定への寄与としても環境への働きかけとしても作用し,

周囲を鎧のように固められた身体では,

例えば触れることに対しての感覚入力が

鎧を脱いだ身体で感じられる今働きかけた対象物の実の感覚入力とは異なるなど,

働きかけたことに対するリアクションとしての感覚入力が

異常信号であるにも関わらずそれが異常として探知されず,

ということが様々な感覚系で起こる.

それは様々な感覚系からの情報を統合した結果である,

<あるもの>の<あるもの>としての知覚が乱れて主観の中でのズレが生じてしまう,

つまり<あるもの>を<あるもの>として知覚することができなくなる.

すると次への働きかけができない,

もしくは主観の中で生まれたズレを埋めようと過剰努力し,

さらに<あるもの>の<あるもの>としての知覚が生まれず,

といった悪循環を起こす.

ここで言いたいのは,大前提として,

働きかけの結果<あるもの>を<あるもの>として知覚できなければ,

すなわち知覚循環できる身体でなければ,能動的に働きかける意味はなく

それは運動学習にもなり得ない,ということである.

すなわち知覚循環ができれば,

環境への働きかけという意味のあらゆる運動において,

空間情報と体性感覚情報がマッチングする

といったような外部情報と内部情報の統合を経て,

その運動の学習や習得,動作や生活の変化として結実する.

私は運動学習をそのように捉えている.


ここで,運動の中でひとつひとつが意識に上がらない個々の感覚や,

ダイナミックな動作をセパレートした個々の関節運動など,

運動や動作の中で背景としてしか存在しない身体内部の情報に目を向けても,

すなわち意識しても,

その身体内部の情報は環境への働きかけとしての運動や動作として

「比較的永続的」に達成,成立する時には

その運動や動作の中での背景でしかなく,

いわゆる無意識の領域に至ってしまう,至るべきものである.

ただ,その背景となり得る要素は無限大であると同時に,

身体運動感や身体内感,身体図式といったような曖昧もしくは抽象的であったり,

明確な言語化が困難であったりするものである.

そこに意識を向けるというのは,

フレーム問題やリベット値といった問題点が浮き彫りとなり

非現実的ではないかと考えられる.


最後に挙げたフレーム問題やリベット値といった

引用は非常に唐突であったが,

現在読み始めた書籍の『注意と運動学習』(2010)にもあるように,

指示あり群より指示なし群が,

インターナルフォーカス群よりエクスターナルフォーカス群が,

より良い運動学習効果を示していたように,

身体の内部情報のような運動や動作の中での背景なるものに意識を向け,

運動や動作,さらには生活へ変化をもたらし学習し,

「比較的永続的」な背景を元にした

「比較的永続的」な運動や動作,生活を獲得することは難しいのではないか,

というのが私の現時点での運動学習についての結論である.







以上でございます。

長くてよく分からんなーと思うようなものを

最初から途中から最後まで読んで頂いた方

ありがとうございます。

何か意見や批判がありましたら

是非ともコメントを頂ければと思いますので

よろしくお願い致します。
関連記事

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

コメントの投稿

Private :

このへんのことを3月の勉強会の時にしようと思ってました笑。

タイミングはかぶるもんですね。

引き込み現象ですな。

Re: タイトルなし

> このへんのことを3月の勉強会の時にしようと思ってました笑。
>
> タイミングはかぶるもんですね。
>
> 引き込み現象ですな。

ははっ笑
なら…オレはどこを攻めようか…
考えなアカンな…。。
同じテーマじゃ面白くないし…。。
また来週楽しみにしてますので♪
よろしく☆

はじめてコメントさせて頂きます。

Bridgeの管理人です。

頭いいですね~
というか頭おかしいですね(笑)

1年目なのに
というか経験年数なんてあんまり
関係ないですね。

頑張っているセラピストにとっては。

ということで
うちの感じたことを…

>大前提として,運動学習できる身体,
>知覚循環できる身体でなければ意味がない.
>というのも,表在筋が安定への寄与としても環境への働きかけとしても作用し,
>周囲を鎧のように固められた身体では,
>例えば触れることに対しての感覚入力が
>鎧を脱いだ身体で感じられる今働きかけた対象物の実の感覚入力とは異なるなど,
>働きかけたことに対するリアクションとしての感覚入力が
>異常信号であるにも関わらずそれが異常として探知されず,
>ということが様々な感覚系で起こる.
>それは様々な感覚系からの情報を統合した結果である,
><あるもの>の<あるもの>としての知覚が乱れて主観の中でのズレが生じてしまう,
>つまり<あるもの>を<あるもの>として知覚することができなくなる.
>すると次への働きかけができない,
>もしくは主観の中で生まれたズレを埋めようと過剰努力し,
>さらに<あるもの>の<あるもの>としての知覚が生まれず,
>といった悪循環を起こす.

この考え方だと
循環論になってしまい
答えに行きつかない気がしたりします…

この文章だと
周囲を鎧のように固められた身体…
だから…
だから…だから…
と鎧のようになった身体が引き起こす悪循環について
考察されている気がします。


だから→だから→…
ではなく
なぜ←なぜ←なぜ…
と原因の追及の方向に
思考できると新しい発見ができるかもしれません。


じゃあなぜ患者さんは鎧のように
固めないといけないのか?
を考えないと

鎧ははがせないかもしれないですよね。

鎧を着ているか知覚循環できないのか?
知覚循環できないから鎧を着る戦略をとっているのか?
それともまた違う理由で鎧を着ているのか?

これでも
考えることは変わってきます。

どうでしょうか?
OSM??
とは何の略かは知りませんが
マニアックな1年目のメンバーで
うらやましいです。

うちのマニアックなメンバーは
年に数回くらいしか集まれないので…

近くにはあんまりいないし…

ということで
また考えてみて下さい。
んでもってまた先生や
仲間のメンバーでの解釈を
教えて下さい。

うちの勉強のために(笑)

Yu

いいなー!
Bridge管理人さんからコメントもらってるし!

OSMとはOff-Site Meetingの略で、オフサイトミーティングと読みます。

簡単に言うと「仕事とは離れたオフの環境で仕事の話をする会」です。
本当はもっと色々ありますが、元はこんな意味です。

学生のころ「権限のない社員が会社を変える―「権限がない」という呪縛からの解放」という本に感銘を受けて、みんなで作りました。

http://www.amazon.co.jp/%E6%A8%A9%E9%99%90%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%84%E7%A4%BE%E5%93%A1%E3%81%8C%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%82%92%E5%A4%89%E3%81%88%E3%82%8B%E2%80%95%E3%80%8C%E6%A8%A9%E9%99%90%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%91%AA%E7%B8%9B%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%A7%A3%E6%94%BE-%E8%97%A4%E5%8E%9F-%E9%9B%84%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4901161741

他人のブログで長々と失礼しました。

Re: タイトルなし

Bridgeさんへ

コメントありがとうございます!
まず…やはり刺激になります!!

なぜという視点
非常に大切だと思います。
臨床でも常に「なぜ?」「なんでだ?」
と考えているのですが
今の私のキャパでは考える域に限界がある
そのように思うことが多々あります。
…ほとんど…9割9分そんな感じです。

なぜか
考えた上での考えをまた表に出していきたい
そう思いました!

頑張ります!!
本当にコメントありがとうございました。

Re: タイトルなし

M樹もOSM的な感じでBlogを書いているんですかね。
そういう視点も大事だと思います。

ただ何よりも大事なことは
自分の考えではないか?
と私は思います。

何事も批判的な視点で見ることができる
そういうところは尊敬に値します。
できればですが
自分はこういう視点でやっているんだよ
というのを聞きたいですね。

建設的・理論的である以上に
自分はこういうスタンスだよ
そして自分が自動詞的にこういうベクトルで
こういう実践をしているんだよ
といったような
自分から創発しているものを
自らの主観・内観(内感)に
準じて表に出してみるのもひとつではないか
ということを提案したいものです。

いかがでしょうか?
プロフィール

Yu Takada

Author:Yu Takada
高田 勇です!

常に自分を更新し!
器の大きな人間に!

尊敬する人!
石川遼選手にしても…
茂木健一郎先生にしても…
我が未来像の先生にしても…
カッコいい!

素晴らしいPTになることを
誓います!!

最新記事
最新コメント
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
リンク
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

アクセスカウンター
FC2カウンター
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
日記
40315位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
12192位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

このページのトップへ
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...